【愛に出来ることはまだあるかい】結局愛には何が出来るのか

RADWIMPS「愛に出来ることはまだあるかい」の歌詞の意味を考察。
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新海誠最新作『天気の子』主題歌

2019/7/19公開、新海誠監督の新作アニメーション映画『天気の子』に、RADWIMPSの書き下ろし楽曲「愛にできることはまだあるかい」が提供された。

前作『君の名は。』以上に密接なやり取りがなされたようで、『天気の子』の脚本をVo.野田洋次郎が読んだ後に書いた楽曲だという。そしてこの曲を聴いて、新海監督も作品のテーマを明確に認識出来るようになったそうだ。当然内容と曲がリンクしてくることになる。

では、この謎に満ちた楽曲のテーマとは?

愛を信じる非常識

愛にできることはまだあるかい 歌詞 RADWIMPS 映画「天気の子」 主題歌 ふりがな付 - うたてん
RADWIMPSが歌う愛にできることはまだあるかいの歌詞ページです。映画「天気の子」 主題歌です。 何も持たずに 生まれ堕ちた僕 永遠の隙間で のたうち回ってる

「愛にできることはまだあるかい」で綴られるのは、愛が語りつくされた現代の世情。子供の頃信じていた綺麗事は全て役に立たなくて、そんなものに頼る大人はまともじゃないと指をさされることもわかってて。それでも君と育んだ愛だけを信じて生きる男。

心の中にいる子供のままの君が、僕を導くからこそ、常識から逃れられる。離婚率は30%を超え、愛なんて実在するのかも怪しくなってきた令和元年。野田洋次郎が見つけたフレーズは、消極的な問いかけである。「愛に出来ることはまだあるかい」は、愛に半信半疑な現代人へと問う。

では愛に出来ることとは何か。そしていつか失われる愛を、人はなぜ求めてしまうのか。

問いかけの相手は

終盤、野田洋次郎は人間の儚さを誰かに問いかける。淡雪のように消えていく愛、そして全てを奪い去る死、それらを与えた神に問うのである。愛を求め死を恐れ、もがく人間を眺めながらそしらぬ顔の神に。あるいは、自然の摂理そのものに。

語りつくされた愛に出来ることは

野田洋次郎が力強く「ある」と断言する、愛に出来ることとは何なのか。その答えは主題歌として提供された『天気の子』に用意されていると考えるべきだろう。大きなネタバレになってしまうため、この先を読む方は注意してほしい。一つだけ言えることは、決して誰もが思いつかないような奇想の類ではない。むしろ普遍的で、ある種誰もが知っていることである。

これまでの映画とは違う形で愛を描き切った「天気の子」、その中で愛は何を成し遂げたのか。まだご覧になっていない方は、劇場で要チェック。

(以下ネタバレ含む)

【ネタバレ注意】その答えは

新海監督が『天気の子』で描いた愛は、究極の利己主義である。言い換えれば、自分(たち)さえ良ければ良いやという考え方だ。愛することは、その相手を何よりも優先するということだ。作中で娘のために須賀が帆高を見捨てたように。そして帆高が陽菜のために、東京を水の底に沈めたように。

例えば多くの映画では、愛する人を救うために自分の命を投げ出す人物が描かれる。そしてその行動が結果的に世界を救うことになる、というのがよくある流れだろう。「愛に出来ることはまだあるかい」の後半の歌詞に出てくるのも、こういった映画だ。

野田洋次郎が感じ取った『天気の子』の面白さは、こういった映画とは真逆といえるストーリーだろう。全体最適もなにもかもすっ飛ばして、世界を滅ぼしかねない選択をしても、愛する人を優先するという選択。こんな形で愛を語る映画はあっただろうか。

この映画に描かれた愛は決して世界を救わない。誰にも称賛されない。ただ、愛する人を救うだけである。終盤、須賀は帆高に語り掛ける。「この世界は元々、狂っている」と。その裏に透けるメッセージは「狂っているからこそ、青年よ、自由に生きろ」ということだろう。

ならば愛に出来ることは世界を救うことではなく、人を常識の鎖から解き放ち、自分勝手に生きさせることなのである。それが普通の人から見れば狂っていることだとしても、「それでいいんだ」と新海誠と野田洋次郎は強く肯定するのだ。

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