中島敦『山月記』
心の内にある「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」が人を虎に変えてしまうという、国語の教科書に掲載された人気の高い文学作品。難しい言葉を使った作品ではあるが、思春期という人生で最も傷つきやすいこころを持った時期にこそ、読んでおきたい一作である。
あくまで李徴自身の考えではあるが、彼は自分の「自意識」によって虎になった。詩人(クリエイター)としての才能が及ばなかったために、自らの自尊心と羞恥心に苦しめられることとなった李徴に、ミュージシャンたちは自己を重ねてきた。
今回は「山月記」に影響を受けた曲について、ご紹介したい。
ハンバートハンバート「虎」
夫婦フォークデュオ・ハンバートハンバートの「虎」では、曲を作る苦しさが歌われている。ハンバートハンバートで作詞作曲を担う佐藤良成(右)が、自己の内面をつづったような苦しみに満ちた1曲は、「虎にもなれずに溺れる」という言葉で締めくくられる。
MVに友情出演している芸人・作家の又吉直樹は「虎」について、次のようにコメントしている。
僕にとっては。“虎にもなれず”っていう歌詞が、苦しいっていうか、虎になってしまったらある意味社会の価値基準みたいなものモノの外に行けるんですけど、そうはならないから、その中でどう生きていくかっていう。そこが苦しいんですけど、僕はそこに愛しさを感じるというか。
引用:cinra.net
「山月記」で虎になることが「しあわせ」であると考えていた李徴。自分が人間であることから逃げられず、自己の内面と戦い続けなければならない苦しみを、クリエイターだけでなく誰もが背負っている。だからこそ、愛おしい。
PEOPLE 1 「常夜燈」
素性が明かされていない音楽家PEOPLE 1の「常夜燈」には「臆病な自尊心」という歌詞が出てくる(3:40~)。ゴスペル風の楽曲に乗せて歌われるのは、売れないクリエイターの苦悩である。誰もが「食えるか食えないか」という問題に直面し、李徴のように制作をやめてしまう。
しかしこの「常夜燈」では「臆病な自尊心」によって、自分は「大人」にならず作品を作り続けていると歌う。多くの人に認められる「神曲」が、コンビニでBGMとして消費されていく。自分に才能があるのかないのか、そもそも売れるってなんなのか。明るい曲調とは対照的に、悲観的な歌である。
音楽を続けていく未来は輝いては見えないから、自分の胸の灯も誰かにあげてしまいたい。これは「臆病な自尊心」を捨て、クリエイティブな活動をやめることに他ならない。音楽をいっそやめられたら…という葛藤を歌った、クリエイターの苦しみを知るからこそ書けた1曲。
福山雅治「とりビー!」
福山雅治が2014年にリリースしたレゲエ調のリズムが印象的な1曲「とりビー!」には、「山月記」の一節が引用されている。
何かを成すには人生は短い 何も成さぬなら人生は長い
中島敦「山月記」
この鋭い切れ味を持ったフレーズは、思春期の頃はなんとも思わなかったかもしれない。しかし年を重ねた今、ドキッとさせられる。
人の言葉で誰かに説教する自分、その言葉が自分に返ってくる。しかしこの「とりビー!」は、その言葉をかみしめ努力するのではなく、「とりあえずビール!」と逃げてしまう。自分を追い詰め続けた李徴とは対照的に。その明るさ、地に足のついた社会とのかかわり方こそ、李徴の詩作に足りなかった何かなのかもしれない。
自身の不完全を認め、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を飼いならす。それが社会の中で生きていく人に与えられた難題なのだ。
Mr.Children「Starting Over」
細田守監督のアニメ映画『バケモノの子』の主題歌として、Mr.Childrenが提供した「Starting Over」。『バケモノの子』は中島敦の「悟浄出世」を参考にして作られているのだが、この「Starting Over」は「山月記」を思わせる内容になっている。
自分だけがいける世界、つまり心の中にいる「モンスター」について「虚栄心」か「恐怖心」か、それとも「自尊心」か?と分析するVo.桜井和寿。その「モンスター」は恐ろしいだけでなく、「子猫」のような愛しさもある。彼なりの心中の虎との向き合い方について歌っている。
そして同時にMr.Childrenクラスのスターでも、創作者の葛藤を抱えて生きているということなのだ。
おわりに
中島敦「山月記」はこのように多くのミュージシャンにとって、自身の心と向き合うきっかけとなってきた。この他にも多くの音楽家が「山月記」を参照している。
そしてそんな山月記の李徴のこと(RT参照)をテーマに私が作った曲がこちら。およそ2年半前の曲。 pic.twitter.com/9yuoD6NDAy
— 岡崎体育 (@okazaki_taiiku) May 20, 2015
- 岡崎体育「草叢ノ虎」
- sasakure.UK「タイガーランペイジ」
- てあしくちびる「フェイントはしない」
- 四六時中「山月記」
- GRAND FAMILY ORCHESTRA「山月記」などなど
とりわけVOCALOIDの分野では、多数の曲が制作されている。心の中の虎に悩まされ、詩作の苦しみを知る仲間として、李徴に共感してきたクリエイターたち。これほど引用される文学作品は他にあるだろうか。中島敦は自身の創作ノートにこういった言葉を記している。
「人間は誰も猛獣使ひで、それぞれ自分の性情が、その猛獣に当るんださうだが、全く、ボクの場合、自尊心といふやつが、猛獣でしたよ。ねえ、全く、自尊心とそれから、もう一つ、羞恥心、こいつが曲者でね。大人しさうで決して、さうでない。ハイエナかジャカアルみたいな奴でね。ライオンにいつもジャカアルがついてゐるやうに、自尊心にいつもこの羞恥心がくつついてゐるんだ。」
引用:中島敦『ノート第九』p.7
創作者は常に、羞恥心に苛まれる。その苦しみを乗り越えたからこそ、中島敦は名作と呼ばれる作品を残した。
また他の文学作品を参考にした曲などがありましたら、下部のコメント欄で情報交換が出来ればと思っています。ぜひ教えてください。それでは。
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